永田岳

雪の永田岳

屋久島の里から見える唯一の奥岳

標高1886メートルの永田岳は屋久島および九州において宮之浦岳に次いで2番目に高く、九州の南に位置しながらも、冬には冠雪します。
屋久島の中央部にある高い山々を人々は奥岳と呼び古くから信仰の対象にしてきましたが、海沿いの人里から山頂を仰ぎ見ることができるのはこの永田岳のみです。
地元の古老は「永田岳も毎日拝んでいる。自然に拝みたくなる。」と言います。

春の永田岳

岳参りの伝統

永田を含む屋久島の集落では古くから山を神と仰ぎ、春と秋の二回、山の神様へお参りをする「岳参り」を行ってきました。
いつから行われてきたか、その端緒は明らかではありませんが、西暦1448年に日増上人が布教に訪れた際、すでに永田の住民は岳参りをしていたと伝えられています。
また、永田岳山頂の岩陰には享保7年(西暦1722年)に祭られた祠があります。

昭和初期の岳参り

昭和初期、岳参りは集落の青年団(25歳以下の青年)を中心とした行事でした。
忌中(3年間)の者、希望する子供(おおよそ小学校4年生以上、生理のきた女子は不可)が登り、集落全体では約100名が山に登ります。
子どもは弁当四食と衣類を背負い、大人はそれに加えて布団と1メートル以上はある大きなたいまつを背負って山に登りました。
子どもには必ず杖を2本ずつ切ってやり、曲がり角で帰り道のしるしになるように傷をつけながら登って行きます。
夕方に鹿之沢小屋あたりに着くと、大人は薪を用意し、子どもは自分たちが寝る柴を集めて敷きます。テントや寝袋なんていう便利なものがない時代ですので、青空の下で薪を焚いて、子ども達は火に足を向けて輪になって寝ます。
大人たちはその子どもに燃え移らないように、一晩中起きて火の番をしながら、木を削って船や端をつくりました。
翌朝は4時ごろに山頂へ向けて出発します。神主から祝詞をあずかってきた人が、青年団の中でだれか両親がいる人が預かって、鹿の沢の裏の川で禊をしていく。
まだ暗い道を歩くとき、大人たちが持つたいまつが明かりです。電池は一人しか見えないけれど、たいまつは前後ろよく見えるから。
上のほうに行ったら、山頂から200m位下に沼があって、そこで他の人も禊をする。
山頂では神主さんの代わりが祝詞をあげて、塩を上げて、朝日を拝んで帰ってくる。
帰ってくるときには、シャクナゲを大人は20本ばかり、子供は10本ばかり持ち帰りました。
鹿の沢で朝ご飯を食べてから8時ごろに降りはじめ、降りて来たら、横河渓谷で行った人だけで酒迎(さかむかえ)。無事にお参りできたぞ、里へ下りてきたぞ、と。ここで最後の四食目の弁当を食べます。
そのあと、浜まで下りてきて、前浜で村の人が総出で酒迎をしておしまい。
(日高弘美さん談)

永田岳